海辺のふかふか

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経済回した、って言うのやめてみませんか?

『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』でC. ダグラス. スミスは、経済成長(および所得を増やすことや賃金を得ること)について考えることだけが現実的で、それ以外は現実離れした理想主義とされている、と指摘しています。そしてスミスはこの状態を「タイタニック現実主義*1」と表現します。タイタニック号においては、船旅を続けるためのタスクを続けることだけが現実で、氷山に向かって進む船を止めることは非現実的でした(それは氷山の存在を知らなかったためですが)。それと同じように、経済成長を進めることだけが現実で、その行き着く先について考えることは非現実的だと捉えられているということをタイタニック現実主義という言葉は表しています。

経済成長だけが現実だと考えられるようになったのはなぜでしょうか。その背景として、20世紀に経済成長というイデオロギーがあまりに深く根付いたため、そのイデオロギー性が見えにくくなっていることが挙げられています。ここで一旦スミスの指摘から離れて「イデオロギー」という言葉の意味を確認したいと思います。イデオロギーとは「社会はこうあるべき」という思想や意見のことと私は理解しています。イデオロギーは相対的なものです。全員が同意するイデオロギーは、常識や真理といった絶対的なものになります。例えば「戦争はするべきではない」と誰もが考えていたとしたら、平和主義はもはやイデオロギーではなく常識、コモンセンスとなるでしょう。

経済成長するべきだ、というのはひとつのイデオロギーです。しかし20世紀においてはそのイデオロギーを「自由主義者保守主義者もファシストもナチもレーニン主義者もスターリン主義者もみんな共有していた」ため、経済成長というのは「イデオロギーではなくて客観的な事実、あるいは客観的な必然性」と考えられてきたのです*2

経済成長がイデオロギーではなく事実として捉えられているというのは私も普段から感じていたところでした。そのひとつの例が、高額の買い物をしたことを指す「経済回した」という表現です。「お金をたくさん使ってしまった」というマイナスを「経済活動を活発にした」というプラスに言い換えるユーモラスな表現として、よく使われているかと思います。これは経済活動は活発な方がいい、つまり経済は成長している方がいいというイデオロギーが、自明のものとして社会に受け入れられていることを前提にした表現だと考えられます。なぜならそのイデオロギーが浸透していないと「経済回したから何?」って言われてしまうから。

そして私は「経済回したから何?」と言いたい。消費自体を否定したいわけではありません。対価を支払わないと得られないものは数多く、それらから生まれるリアルな喜びがあることもひしひしと感じています。でも「欲しかったから買った」でいいじゃん、と思うのです。欲しいものが手に入る喜びと一緒に経済成長イデオロギーまで全肯定することはない。

おそらくイデオロギーへの支持を表明するために「経済回した」という表現を使っている人は多くないと思います。みんな多分そこまで考えてない。でも言葉は呪文だから、その名前を唱え続けることで概念は力を増す。逆に唱えないことでその力を削ぐことも出来るはず。だから「経済回した」って言う前に、経済成長イデオロギーを支持するかどうか1回考えてみるのはいかがでしょうか。そしてもし支持する気が起こらなかったら「欲しかったから買った」って言ってみませんか。

 

参考文献

C. ダグラス. スミス『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』 平凡社、2004年。

 

*1:『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』p.28.

*2:同p.85.