海辺のふかふか

読みたいものを書くブログ

自転車を手放す

新しい自転車を買いました。それに伴って、高校からおよそ10年乗っていた自転車を手放しました。雨の日も風の日も一緒に走った自転車。受験、初出勤、忘れられないライブ……どんな日も駅まで送り届けてくれた。自転車の処分をお願いして家に帰る前、一度だけ振り返った。今までありがとう。

新しい自転車で家に向かって漕ぎ出したとき、新しく買えた嬉しさより、古い自転車を手放す寂しさが圧倒的に大きかった。今度は違う色にしてみようか、なんて思っていたのにやっぱり同じ白にしてしまって、2代目のわんこを買う人の気持ちがわかる気がした(全然違うかもしれないけど)。新しい自転車とも仲良くしていきたい。

舞踊る(おどる)ってガリレオにありそう

最近ダンスを練習しました。短い振り付けを覚えて踊るサークルみたいな集まりがあるので、その予習です。予習しないで行っても丁寧に教えてもらえるけど、理解した振り付けをその場で再現するのは正直なかなか難しい。なので何が起こっているかは理解して、ゆっくりなら踊れるくらいには練習していってます。振りを覚えていても曲のテンポで踊るのはなかなか難しいし、いい感じに踊るとなると結構大変。追い込むとつらくなりかねないので、楽しむことが一番大事!という精神でやっています。

踊る曲はK-POPからボーカロイドまで幅広く、毎週変わるので、お手本動画を見て手に負えそうだと思ったら参加しています。手に負えそうか判断するときには、自分の実力を少し高めに見積もってみます。身の丈に合わせる毎日だから、たまの背伸びは気持ちがいい。やってみて無理だったらその週は諦めてもいいしね。ちょっと無理めかなと思った曲を踊れるようになると、自分やるじゃんと思えて嬉しいです。

今週のお題「練習していること」

幸せなら手を叩こう?

朝日新聞でこんな言葉が紹介されていました。

自分の視界の端に会いたかった人がいる。その距離感で十分なのだろう。*1

これはタイ北部の狩猟採集民について研究した『ムラブリ』という本からの引用で、著者の伊藤雄馬は気持ちを表に出すことを慎むムラブリの人々を見てそのように感じたそうです。

この感覚はわかる。私は好きな人たちでも一緒にいたい時間は限られていて、一緒にいて分かる以上の情報はそんなに欲しくない。だからSNSもやらない。知りたい以上の情報が流れ込んできたり、一緒にいたくない時間を我慢して過ごしたりするよりは、ちょっと寂しいくらいがちょうどいい。あの人どうしてるかな、と思い出して、たまにそれがわかればハッピー。

でもこの感覚は世間一般でいう友人関係からすれば接触が少なすぎるようで、ミステリアスとか何を考えているかわからないとか言われて、まあ友人は少ない。無理して会う方が関係を害すると思っているので今のところ変わる気はないけれど、海の向こうに同じような感覚を持つ社会があるらしいと思うと、ちょっと希望湧いちゃう。タイは視界の端に収めるには少し遠いけれど……。

また著者は「『ポジティブな感情を表現して認め合うこと』が幸福だという、現代社会の感性」に疑問を抱き、「『誰かといる」のでも「他人に認めてもらう」のでもない幸福」に懐かしさ」を感じたといいます*2。私にはそういう幸せを「懐かしい」と感じることも難しいかもしれない。気付けば幸福の発信が正義になって、笑いも涙もシェアシェアシェア。上手に表現できる人がどんどん支持を集めて、サイレントマジョリティは黙って「いいね」。そんな社会に慣れすぎているかも。

誰かといるのでも他人に認めてもらうのでもない幸せとは、自分が自分である幸せなのではないかと思います。例えば本を読んで心を震わせるとき、その作品を大好きだと思うのと同時に、そこで震える感性を持って生まれ、それを育ててきた自分よくやったなって思う。生まれたこと、生きてきたことを肯定できる。その瞬間だけは、自分が自分であって幸せ。あとはこのブログも、どんなに拙い文章でも自分にしか書けないもので、そういうものがこの世に生まれることが幸せ。幸福は他者の目がなければ成り立たないものではきっとないから、幸せだからって手を叩かなくてもいいんだと思います。

*1:折々のことば. 朝日新聞. 2024-03-14, 朝刊, p.1.

*2:同上

世界のB面

今週のお題「卒業したいもの」

無いで〜〜す、以上!

いや無いなら書くなよって話なんですけど、こうしてたまに自分が自分を割と気に入ってるって気付けるのはいいことですよね。まあまあなもちもちボディ、考え過ぎる頭、感じ過ぎる神経。自分という存在ごと消えてほしいようなお荷物たちから、それでも卒業したいと思ってないんだから。

人と上手く話せない。周りが気付かないことに気付く。みんなが嬉しいことをときどき喜べない。どうしてこんな厄介な人間に生まれたんだ、全部捨ててしまえれば楽なのに、そう思うけど。でも何も考えないで話して、物事のうわべだけ見て、みんなと同じことで同じように喜ぶ、そんな自分は想像つかない。たぶん私は、世界のB面を見るように生まれてる。

こんなこと書くとお前は何様なんだよと思われるかもしれないけど、人より多くのものを見てるつもりかよと思われても仕方ないんだけど。そんなことはなく、見えてるものは多い少ないじゃなくて人によって違うんだろうと思っている。でもまあ、たまには主観に溺れるのもありだと思う。正しいことより、好きなことを書けるようになりたい。

次は沈丁花が来る

沈丁花が咲いていると、春を感じます。甘い香りで、控えめな色と大きさの花……何かに似ていませんか?そう、金木犀です。近年にわかにクローズアップされるようになった金木犀。香水やヘアミストなど、だいぶ手軽に買えるようになってきましたよね。昔からそばにあったのに、急にエモいの象徴みたいに溢れ出して少々辟易しないでもないけどやっぱり好き。

色と大きさは控えめで香りが印象的、という点で、沈丁花金木犀と立ち位置が似ていると思うのです。次は沈丁花が来る。そうなったらまた少々辟易しつつ、春の香りを楽しみたい。

今週のお題「小さい春みつけた」

花が咲いて春が来る

自転車で近所の100円ショップに行ったら、桜が咲いていた。あれ、桜ってこんなんだったっけ?と二度見した。二度見てもやはり桜だった。まだ寒いのに咲いていると思わなかったから、戸惑った。桜って春が似合いすぎてて、まだ春と思ってないうちに見るとびっくりする。

その点、梅は寒さも似合う。この前、紅梅に雪が積もっているのを見た。梅は春の花で一番先に咲くと思う。春が来たことを告げる花というより、春が来ることを思い出させてくれる花。いいにおいがするから、マスクを取りたくなる。

今週のお題「小さい春みつけた」

鏡よ鏡

「ミラー配信」って、どう思いますか?言葉は初めて知ったんですけど、要はリアクション動画の生放送、何かに対する自分の反応を動画などで配信することらしいです(間違ってたらごめん)。

何かに対する嘘のない反応って面白いし、それがその人の愛するものならなおさら、嬉しい好き楽しいが画面から溢れ出て、こっちまで幸せな気分になっちゃいそうなものです。

でもミラー配信やリアクション動画を、自分でやるのはなんか怖い。自分の嘘のない心の動きを「ウケる」だろうと踏んでしまうことが私は怖い。自分の衝動みたいなものが、他人の目を意識することから逃れられなくなりそうで。

同じ理屈で、YouTubeをログインして使うのが怖い。ログインするとコメントが出来るようになる。コメントするために観るようにならないか、それはYouTubeを観るという体験を、そこで起こる心の動きを決定的に変えてしまわないか。気にしすぎなのである。でも気になる。