海辺のふかふか

読みたいものを書くブログ

幸せなら手を叩こう?

朝日新聞でこんな言葉が紹介されていました。

自分の視界の端に会いたかった人がいる。その距離感で十分なのだろう。*1

これはタイ北部の狩猟採集民について研究した『ムラブリ』という本からの引用で、著者の伊藤雄馬は気持ちを表に出すことを慎むムラブリの人々を見てそのように感じたそうです。

この感覚はわかる。私は好きな人たちでも一緒にいたい時間は限られていて、一緒にいて分かる以上の情報はそんなに欲しくない。だからSNSもやらない。知りたい以上の情報が流れ込んできたり、一緒にいたくない時間を我慢して過ごしたりするよりは、ちょっと寂しいくらいがちょうどいい。あの人どうしてるかな、と思い出して、たまにそれがわかればハッピー。

でもこの感覚は世間一般でいう友人関係からすれば接触が少なすぎるようで、ミステリアスとか何を考えているかわからないとか言われて、まあ友人は少ない。無理して会う方が関係を害すると思っているので今のところ変わる気はないけれど、海の向こうに同じような感覚を持つ社会があるらしいと思うと、ちょっと希望湧いちゃう。タイは視界の端に収めるには少し遠いけれど……。

また著者は「『ポジティブな感情を表現して認め合うこと』が幸福だという、現代社会の感性」に疑問を抱き、「『誰かといる」のでも「他人に認めてもらう」のでもない幸福」に懐かしさ」を感じたといいます*2。私にはそういう幸せを「懐かしい」と感じることも難しいかもしれない。気付けば幸福の発信が正義になって、笑いも涙もシェアシェアシェア。上手に表現できる人がどんどん支持を集めて、サイレントマジョリティは黙って「いいね」。そんな社会に慣れすぎているかも。

誰かといるのでも他人に認めてもらうのでもない幸せとは、自分が自分である幸せなのではないかと思います。例えば本を読んで心を震わせるとき、その作品を大好きだと思うのと同時に、そこで震える感性を持って生まれ、それを育ててきた自分よくやったなって思う。生まれたこと、生きてきたことを肯定できる。その瞬間だけは、自分が自分であって幸せ。あとはこのブログも、どんなに拙い文章でも自分にしか書けないもので、そういうものがこの世に生まれることが幸せ。幸福は他者の目がなければ成り立たないものではきっとないから、幸せだからって手を叩かなくてもいいんだと思います。

*1:折々のことば. 朝日新聞. 2024-03-14, 朝刊, p.1.

*2:同上